阪神時代の野村克也と今岡誠についての雑感

阪神時代の野村克也今岡誠についての雑感 まとめよう、あつまろう - Togetter

こんなことに2時間も費やしてしまった……。
出だしのやつは言葉が伝わらない時ってあるよねっていうのを思いつくきっかけになったから載ってます


戦争は外交の延長で最後の最後に選択されるべき手段と分かっているのに、なぜ体罰は教え諭し、説教し続けた延長で最後の最後に選択されるべき手段とならないのか


教育の失敗を体罰で取り返していく


『日本プロ野球平成の名将―1989ー2012』というムック本で、伊原春樹は、野村克也今岡誠の関係がなぜ上手く行かなかったのかについて話していた
伊原によると、今岡は職人型の部類に入る選手であり、プレイ中の判断が早い、とのことだ
一方野村は、著書からも分かる通り姿勢を重視する。茶髪や金髪、長髪の禁止というのはよく知られている。当然プレイにおいても姿勢を重視している。


とあるオープン戦(記憶曖昧)において、セカンドとライトの間に打球が飛んだ。セカンドを守っていた今岡は自己判断で追うのを止めた。結果、ライトが捕球したのだが、野村にとってはこれが許せなかった
野村は痛烈に批判した。ただそれは今岡にではなく、コーチにであった。


ボヤキというのは野村の常套手段である。この間接的なコミュニケーションで選手の反骨心を煽り、意識を正すのが野村の手法である。おそらく野村にとってこの今岡のプレイへの批判は普段と変わりないものだっただろう。ただし、それは野村にとってであった
今岡は、野村の思惑と全く別の方向に行ってしまったのだ。野村は何度も何度も今岡を非難するが、野村の望んだ効果は全くなかった。野村時代の今岡の成績を見ればその低調ぶりは明らかであった
このことについて、伊原は野村を批判している。真っ向から今岡に伝えるべきだったのだ、と。たしかに伊原の言うとおりだったかもしれない。闘将と称される星野仙一が監督になってからの今岡を見れば分かるだろう


なぜ野村は失敗したのか
1.過去の成功に囚われた 2.環境の違いを理解していなかった 3.今岡の気質を見抜けなかった


1.は野村の実績が故の問題である。ヤクルト時代、野村は幾度も宙を舞った。それは、野村自身が己の手腕について自信を深めるに申し分の無いものであった。ボヤキ、も当然その一つである。しかし、阪神という球団は野村の想像をも超える集団だったのだ


2.の環境の違い。これが野村の失策を招いた。阪神という球団は野村の想像を超えていたのだ。徹底したミーティングは野村野球の力の源ともされるが、このミーティング中において阪神の某選手は難しすぎて分からないよねと笑いながら声を上げ、他の選手も追従し笑うという有様だった
そう、「言葉が伝わらない」のである。後年、楽天において試合中に野村のボヤキを耳にした山崎が気づき、本塁打王を取ったように、野村の言葉は少なくとも野球において価値があるものなのだろうし、野村も意図してそういった言葉を発し続けている。だが、それが伝わらない
言葉が伝わらない理由として、もう1つ考えるとするなら、それはコーチ陣の問題だろう。
http://t.co/3RX1NLhA
http://t.co/2qXWc7fv
野村時代のコーチ陣は上のような陣容となっている
コーチ陣に理解者が少なすぎるのだ。野村をきっちり理解しているのは、腹心の松井優典と、あとは精々柏原純一ぐらいではないだろうか。ヤクルトでの長期政権で培われた関係をほとんど引き継いでいないのである。これでは野村の意図がまともに伝わらないのは当然のことだ


ここで、ヤクルトの監督になった当初もそこまでの関係はなかったはずだという考えが浮かぶ。ではなぜヤクルトで成功し、阪神で失敗したのか。
ヤクルト時代の野村は後がなかった。ここで監督として成功しなければ二度と誘いはこないという状況下にあった。当然気合も入り、熱も入る。
そう、野村自身が好んで使う 「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。」 という状態に野村自身がなっていたのではないか
要するにハングリーである。ヤクルト時代の野村はハングリーだったのだ。だが阪神時代には違っていた。自らの手腕、手法に自信を持ってしまった。当然、ヤクルト時代の気合や熱はなくなり、ID野球(TOP野球)という命題の冷たい教科書となってしまったのではないか
驕る者久しからずという言葉があるが、野村がまさしくその状態にあったのではないか。だから、今岡に対して1つのスタイルに固執し、意味のない非難を繰り返す結果となったのではないか


3.の今岡の気質であるが、今岡はPLから東洋へと進み、五輪代表選手となり、ドラフト1位で阪神に入団。というエリート中のエリートである。1年目は期待に応えきれなかったが、2年目は3年目の飛躍を大いに期待させる成績を残していた
今岡は自分のプレイスタイルに自信を持ち始めていたところだった。そこに野村である。野村が今岡のプレイスタイルを非難する。勿論それは野村なりの意図があってやっていることだ。だが野村の言葉を伝える人間がいない。野村の真意が今岡に伝わることはない
若手にとって上司の、しかも最上位である社長は遠い存在である。その社長がクソミソに仕事ぶりを貶してきたら、しかも誰も真意を教えてくれなかったら、もうこれはひねくれまっしぐらである。毎日が暗黒でブラック企業なんでもう辞めたいという状況である
でも社長は期待している。この若手には素質があると、大選手になる才能はあると、あとは姿勢の問題だと、さあ食って掛かって来いやと、反骨心ボウボウに燃やしてこいやと。
でも無理なのだ。なぜなら周りのコーチだって、選手だってこの社長を理解してないのだ。最ベテランの和田豊が「監督が変わっても僕達は変わらない」と言うぐらいの状況なのだ。
タニマチという存在がある。阪神の低迷に一役買っていると名高い存在であるが(実際の影響力は知らない)、選手の良き理解者であり悪い友達でもあるといったところなのだろう。ひょっとしたら彼らの存在もまた今岡にとって不運だったのかもしれない


自らの手法に凝り固まる野村、ダメ虎根性染み付きまくりの阪神、感情を消して只管野村の退陣日を待ち続ける今岡。失敗は必然であった


野村から星野に変わり、03年にリーグ優勝を成し遂げた阪神。その時のメンバーを見ると、赤星、藤本、沖原といった01年新人勢、抜擢された浜中、追い込まれモデルチェンジを迫られた桧山、レギュラー捕手となった矢野が野村阪神の結果と言えるだろうか
色の付いてない(ダメ虎根性のない)選手、追い込まれた中堅選手にはある程度伝わっていたのかもしれない。それは彼らの置かれた状況が変化を望む、必要とする状況だった。要するに話を聞く姿勢、ハングリーな姿勢が出来ていたのかもしれない
逆に、坪井のように思い悩んで(怪我の要素もあるが)、最終的には02年にトレードされた選手もいた。坪井に対し、野村は難しく打ちすぎだという批判をしている。それは当たっていたようだ
坪井は振り子打法を採用しているにもかかわらず、ボールをギリギリまで呼び込んで打とうとしていたらしいのだ。(昔の週刊ベースボールにて坪井の話が掲載された時、イチローだか誰だか忘れたがそんなことを言われたという内容が書かれていた)
加えて野村は振り子打法に否定的であった。坪井自身の探究心と野村の言葉からくる悩み、死球等に伴う怪我、坪井が低迷したのはまた当然の結果だったのだろう


98年に将来を嘱望された今岡、坪井が低迷し、期待されていなかった(期待度が薄れてきた)選手が出てくる。野村ってやっぱり劇薬だわ


野村自身も意識改革には手本が必要だっていうのはわかっていて、佐々木誠広澤克実を獲得してはいたんだけど、生憎ながら全盛期は疾うの昔に過ぎ去ったベテラン勢だったのでチームを変えるまでには至らなかった
星野1年目は片岡で何とかしようと思ったけど片岡も低迷したし、金本は4度目の正直だった
金本まで失敗したらどうだったのか。片岡が成功したらどうだったのか。ちょっと興味深いところではある


おしまい