『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』感想(真面目)
魔法少女リリカルなのはシリーズの新展開として作られた映画版。
昨日の感想はほぼ本能に任せた文章だったが、今回の感想はもう少し整理し考えたものを書いてみたい。
今回の感想における焦点は「相手方の内部関係」である。補足しておくが、今回の「相手方」というのは、「主人公に対抗する立場にある者たち」という意味に過ぎず、純然たる悪の表現や絶対に倒さなければならない存在を表しているわけではない。
まずは、1期→A’s→strikersにおける「相手方の内部関係」を総覧し、更に今回の1stの「相手方の内部関係」を確認する。
次いで、前3作と1stの関係について書く。
最後に、総括と感想を述べたい。
1.前3作の「相手方の内部関係」と1st
(1) 魔法少女リリカルなのは
A. 構成員とその属性
まず、構成員とその属性を確認する
- プレシア・テスタロッサ ― 母親
- フェイト・テスタロッサ ― 娘
他にも、アルフやアリシア・テスタロッサ達もいるが、今回はこの2人の関係に絞る
B. 二人の関係
次に二人の関係である。
プレシアはフェイトの母親であるものの、フェイトに対しては愛情を持っていない。
フェイトはプレシアの想いを叶えるため、想いを叶えて笑顔やそれに伴う愛情を手に入れるために戦う。プレシアからいつか貰えるであろう(と本人が考えている)愛情に依存している。
つまり、二人の関係には相互の想いが通うことはない。片方が拒絶し、片方が依存する。一方通行的な関係にあると言える。
C. 物語の結末
最後に結末である。
結局、相互に想いが通うことは無かった。フェイトはある程度依存から脱却したものの、最後の最後まで強く拒絶され続けた。一方。プレシアもフェイトの存在を最後まで認めることなく、フェイトの想いを退けたまま、死んでいった。
余談だが、このプレシアによる完全な拒絶はフェイトの心に深く爪痕を残した。A’sやstrikersでは、この爪痕と向かい合い、そして立ち上がっていく。
(2)魔法少女リリカルなのはA’s
A. 構成員とその属性
構成員とその属性は以下の通り。
B. 二人の関係
はやてと闇の書の関係。
1つ目は、主従関係である。闇の書のデバイスとしての機能である。
2つ目が、侵食である。従の立場にある闇の書が、はやてのリンカーコアを喰らう機能である。最終的には主の生命すら奪いかねないという問題を持つ。闇の書の「闇」の部分である。
3つ目が、守護騎士機能。闇の書から主へと与えられる贈り物のようなものである。(喜びに変えたのは、はやて自身の資質によるものだが……)
以上をまとめると、母子関係に例えることが出来るかもしれない。親に喜びや育む心をもたらす。相互の感情も通っている。しかし、「闇」があるゆえに親を喰らい尽くしてしまう。
C. 物語の結末
結末は、はやてが闇の書に対して名前を贈り、闇の書に備わった管制システムをリインフォースとして「誕生」させることで「闇」の部分と切り離した。独立した状態で感情を通じ合わせることを可能にした。
その後、闇の書の「闇」部分を一時的に消滅させたものの、「闇」を生んだプログラム自体はリインフォースの中に残っているため、リインフォースは消滅せざるを得なかった。
しかし、魔力やスキルに加え、確かに通じ合ったという主従(母子)の想いを残していいったため、この結末は非常に温かみのあるものとなった。
(3)魔法少女リリカルなのはstrikers
A. 構成員とその属性
- ジェイル・スカリエッティ ― 親
- ナンバーズ ― 子
(ナンバーズは多人数であるが、簡略化のため一括りに扱う)
B. 二人の関係
プレシアとフェイト、はやてと闇の書と異なり、内部関係は極めて平穏である。
スカリエッティ、ナンバーズの態度共に、内側に限って言えば普通だ。
テロに走らず、市井で生活したとしたら、そこらかしこの家庭とそれほど異なるところはないと言える。
加えて、スカリエッティが生み出したナンバーズたちは感情豊かである(後期ナンバーズはある程度削られたが、それでも問題ないレベル)。スカリエッティ自身、多様性を素晴らしいもの(「生命ならではのゆらぎ」)として扱っており、積極的に受容している。
相互に感情の交流もなされ、どちらかが極度に依存したり、交流は確保されていても侵食を伴ったりすることはない。
つまり、健全な状態と言えよう。
C. 物語の結末
事件終了後、スカリエッティと彼に付き従うウーノ、トーレ、クアットロ、セッテの集団(監獄組)とスカリエッティから距離を置いたチンク・セイン・オットー・ノーヴェ・ディエチ・ウェンディ・ディードの集団(更生組)に別れた。
しかし、このことを理由として内部関係が崩れたと見ることは難しい.
状況が分裂を招いたのであり、内部関係の崩壊が招いたのではないからである。逆に、意志を持って選択することが可能という点で、健全さを示していると言ってもよいのではないかと考える。
以上からすると、「普通」である。
(4)魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
基本は「魔法少女リリカルなのは」と変りない。
A. 構成員とその属性
- プレシア・テスタロッサ ― 母親
- フェイト・テスタロッサ ― 娘
B. 二人の関係
プレシアはフェイトの母親であるものの、フェイトに対しては愛情を持っていない。
フェイトはプレシアの想いを叶えるため、想いを叶えて笑顔やそれに伴う愛情を手に入れるために戦う。プレシアからいつか貰えるであろう(と本人が考えている)愛情に依存している。
つまり、二人の関係には相互の想いが通うことはない。片方が拒絶し、片方が依存する。一方通行的な関係にあると言える。
C. 物語の結末
プレシアがフェイトから距離を置いたまま、虚数空間に落下していったのは1期と変わりない。しかし、詳しく内容を見ると違いが見える
まず、1期と異なり、最後のシーンでプレシアはフェイトを強く拒んではいない。「大嫌いだ」と述べたものの、その声は作中で発せられた声とは明らかにトーンダウンしていた。
次に、プレシアは落下しながら、生前のアリシアの言葉である「妹が欲しい」を思い出し、フェイトの存在を受容してしまっている点である。プレシアはアリシアを求めるあまりに、フェイトがアリシアと異なることを受け入れられなかった。しかし、アリシアとフェイトを切り離し、それぞれに立ち位置(姉と妹)を与える、フェイトをフェイトとして「誕生」させることで、フェイトを受容した。
2つをまとめると、フェイトへの態度の柔化、フェイトの存在への受容である。つまり、フェイトへ愛情を向けることが可能になった、相互の感情交流が回復したのである。
フェイト自身についても考えよう。
最後に手が届かなかった。差し出してもらえなかったのは1期と同じである。
プレシアが落下しながら考えていたこともフェイトには考えつきようもない。
しかし、明らかにトーンダウンした拒絶の意志表示や態度から、プレシアの中で起こりつつあった変化は僅かながらも感じ取れた可能性がある。
また、このようにも考えられるだろう。落下中に起きたプレシアによるフェイトの存在への受容、それが本人(フェイト)に伝わらないとしても、十分ではないか、と。
フェイトが最後まで伝えようとしたこと、プレシアからの返事がなくとも、伝わったのだからそれでもう十分じゃないかという考え方である。
もちろん、これは極めて第三者的視点からものを言っているだけで、当事者のことを無視しているだろう。しかし、それでも、これで十分だろうとも思えるのだ。
かなり個人の思い入れが加わって申し訳ないが、つまり、1stの結末は1期とは違う、温かな結末なのである。
2.前3作と1stの関係
1期と今回の1stでは結末が大いに異なることを確認した。
他2作の関係とその結末も確認した。
次に考えるのは、1stとA’s、strikersの関係である。
(1)要点の整理
既に自分が向っている結論については読まれているかもしれないが、まず、それぞれの作品での関係、結末の要点をもう一度書く。
A. 魔法少女リリカルなのはA’s
関係-
- 主と闇の書、守護騎士らによる相互の感情のつながり
- 闇の書による主の侵食
結末
B. 魔法少女リリカルなのはstrikers
関係
- 理想的とまではいかないが、極めて健全な家庭環境
- スカリエッティの多様性(「生命のゆらぎ」)への理解、個性豊かで感情も持つナンバーズ
結末
- 各々の意志に沿った分裂
C. 魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
関係
- プレシアの拒絶
- フェイトの依存
結末
- プレシアの受容―アリシアと異なる人間としてのフェイトの存在への受容―
(2)考察
ここから考えると、1stはA’sとstrikersのハイブリッドの位置に当たるということが分かる。
まずA’sとの共通点を見る。
プレシアが求めた「アリシア」は、フェイトにくっついて離れないものだ。それは闇の書の意志にまとわりついた「闇」と同じものと見なすことが出来る。この「アリシア」という「闇」をフェイトから切り離さない限り、フェイトも、そしてプレシアも苦しみ続けなければならない。(勿論、アリシアが悪いわけではないことを注記)
1stにおいて、プレシアは最後、フェイトから「アリシア」を切り離した。そして、フェイトをフェイトとして「誕生」させることにより、フェイトを独立させたのである。
しかし、それだけでは問題がある。
フェイトとアリシアを違う者と見なさなければならない、更にフェイトに位置づけを与えなければいけないのである。これは、フェイトにとってもプレシアにとっても必要なことだ。なぜなら、フェイトを独立させたとしても、アリシアと同じ立ち位置に据えることは出来ないし、そもそも、フェイトとアリシアは違うからである。
そのために引っ張り出されたのが、strikersで示された多様性への理解(「生命ならではのゆらぎ」)とナンバーズ設定で行われた姉妹という考え方である。
この2つを用いることで、アリシアとフェイトの違いを容認し、アリシアが姉、フェイトが妹という各々の立ち位置を与えることが可能になったのである。
つまり、A’sとstrikersを通じて現れてきた新しい考えが、1期に加わり、1stとして、プレシアとフェイトの関係に一定の結論をもたらしたのだ。
その上で、更に突っ込んでみると、1stはstrikersよりもA’sに近い存在だと考えられる。
というのは、お察しされている方も多いと思われるが、姉妹概念はA’sのときに既に現れていたからである。
フェイトが闇の書に取り込まれ、「幸せな夢」を見る中でプレシアやアリシア、リニス、アルフらと形成する平和な家庭が表現されていた。
その中でアリシアとフェイトの間には、きちんとした姉妹関係が出来ていた。
これは夢に過ぎなかったものの、フェイトが求め、プレシアが至るべき答えだったと考えられる。
ここから考えると、1stは、strikersよりもA’sと強い結び付きを持つと言える。
ここで再度まとめよう。
A’s に重きを置きつつ、strikersのエッセンスも加え、そして1期の現実と向きあって、はじき出した答えが今回の1stだったのである。
(3)1期との関係
残るは、1期との関係である。
これに関して言うと、今回の1stで1期の存在が否定されたと見る必要はないだろう。
1期はなのはが主体となって物語を形作っていった。周囲の登場人物と一緒に、時には衝突し、時には話し合い、泣き……そのなのはの成長譚を否定したところで何の利益にもならない。1期を否定したら、A’sやstrikersはどう扱うべきかという問題が現れるだけだ。
単純に言ってしまえば、「なのは世界」があって、その「世界」にはいくつもの可能性といくつもの視点があって、その答えの1つが今回の1stとすればいい。
そもそも論にいってしまうと、新エヴァが旧エヴァを完全否定するわけでもないし、キスダムRがキスダムを否定するわけでもないのと同様だろう。
つまり、5年と少しの間を経て提示された新しい回答だと考えればいいのだ。
3.総括と感想
あってほしかったモノがここにあった。
伝わらなかった想い、拒絶された言葉、届かなかった手……、1期が示した1つの結末は、とても悲しく寂しい、辛いものに終わってしまった。勿論、その悲劇的な結末とその中で成り立った友情物語は、今でも心に残っている。
でも、それでも、ちょっと悲しい。もうちょっと報われてもいいんじゃないかと思ってしまう。
だから、今回の映画はとても楽しく、嬉しいモノだった。
本当にありがとうございました。
そして、これからもよろしくお願いします。