『甲子園への遺言―伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』

 家から持ってきた読書用の本を一通り読んだので購入。
 予想以上の出来でした。野球を知らなくても楽しめるのではないかとも思えます。
 2005年発売なんだよね。もっと早く買っておけばよかったorz


 以下、かなり鬱陶しい文章。


 プロ野球界の天才軍師、高畠導宏。その生涯。 


 高校・大学・社会人とその打撃能力を示し、南海へ入団。将来の中心打者として嘱望された高畠導宏
 不運にも負った怪我により、彼はその選手生命を終えることになった。
 しかし、彼の生来培ってきた資質と技能、更に南海入団により生まれた出会いが新たな道をもたらす。
 彼の人生は一変する。打撃コーチへの就任である。高畠にコーチの才能を見出した監督野村(現楽天監督)からの要請であった。


 彼のコーチング能力は確かであった。有能ぶりを遺憾無く発揮した。
 卓越した打撃理論、豊富なアイディアはコーチとしての力となった。だが何よりも彼の気質・性格がその成功を支えていたのは言うまでも無い。
 その上、南海で行われていた当時最先端のシンキング・ベースボール。中でも投手の癖を見抜くという考えを野村より教わった高畠はその力をものにし、自ら発達させ、野村を超えるほどの能力を身に付ける。この能力は後に日本プロ野球にしか存在しない戦略コーチとしての道を拓いた。


 野村解任騒動により南海からロッテへ移籍し、ロッテにて打撃コーチ・戦略コーチとして名を馳せた高畠は、再度野村によって招聘される。平成元年のことだった。だが、この再会は決して良いものではなかった
 野村は変わっていた。無論南海を事実上追放されてからの流浪の生活は、性格に変化をもたらしたのも確かであろう。しかし、個人的には変わったのは高畠自身だったように思う。彼は大きく、すごくなりすぎたのだと。野村が解任されてからの13年で、高畠は師匠である野村をも凌駕するだけの能力を手にしていたのだろう。
 野村は久々の監督就任で野球界への本格的な復帰を果たしたところである。ここに留まらないとならぬと当然必死になる。そのために高畠を呼んだ。実際に会い、共に戦ってみると彼が自分をも脅かす存在になっていたことに驚き、そして恐れたのではないかと思う。だから野村は高畠との間に壁を作ったのではないだろうか。
 野村と決別したあと、高畠は仰木(故人、当時オリックス監督)との出会いなど、ダイエー、中日、オリックス千葉ロッテと渡り歩く。どの球団もその才能を求めていたのである。彼の存在はそこまで大きくなっていた。
 
 南海から始まったコーチ人生。その中にもある壁があった。それは技術だけではどうにもならないものであった。
 精神力、精神の問題であった。野球理論や技術論とは無関係の内面的部分。高畠は解決の糸口を求め、言葉の意味を追求し、いかにして言葉を、思いを伝えるかを考えた。学問の世界へもその答えを捜し求めた。
 この学問の世界への関与が、更にもう一つの新たな道を拓いた。
 教育の道である。
 教員として生徒に思いを言葉に乗せて伝えていった。そして、その力を凝縮した言葉が「氣力」である。
 「氣力」が最後に人を支えてくれるものなのだと、前へ進む力を与えてくれるものなのだと。